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東京高等裁判所 昭和60年(ネ)1525号 判決

控訴人

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

吉原省三

野上邦五郎

小松勉

被控訴人

乙川次郎

主文

原判決を取り消す。

被控訴人は控訴人に対し別紙物件目録(二)記載の建物部分を明け渡せ。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

〔申 立〕

一  控訴人

主文同旨。

二  被控訴人

控訴棄却。

〔主 張〕

一  控訴人の請求原因

1  控訴人は被控訴人に対し、昭和五四年七月三〇日、別紙物件目録(二)記載の建物部分(以下「本件建物部分」という。)を次の約定で賃貸した。

(一)  期間 昭和五四年八月一日から昭和五六年七月三一日まで。

(二)  賃料 一か月金九万二〇〇〇円。

(三)  特約

(1) 被控訴人は、本件建物部分の内外で危険又は有害なものを取り扱いその他近隣の迷惑となる行為をしてはならない(契約書六条)。

(2) 被控訴人は、本件建物部分の共用部分(廊下、階段等)に私物を置いてはならない(契約書特約条項(2))。

(3) 被控訴人が本契約の内容に違反したときは、控訴人は催告の手続を要しないで直ちに本契約を解除することができる(契約書九条(1))。

なお、右(1)の特約の存在についての被控訴人の自白の撤回には異議がある。

2(一)  控訴人が所有する別紙物件目録(一)記載の建物(以下「本件建物」という。)は二階建各階二区画ずつ合計四区画の居室からなる木造共同住宅であり、本件建物部分はそのうちの一区画(二階二〇一号室)である。本件建物の隣りには、教会及び教会経営の幼稚園がある。

(二)  控訴人は、昭和五四年八月から昭和五六年七月頃までの間、本件建物の一階をA(一〇一号室、母、妻、子供二人と居住、本件建物部分の直下部分にあたる。)及びB株式会社(一〇二号室、事務室に使用)に、二階を被控訴人のほかC(二〇二号室、妻、子供二人と居住、本件建物部分の隣室)にそれぞれ賃貸していた。

3  被控訴人は、昭和五四年八月一日から昭和五六年八月二日頃までの間に、次のような特約違反の行為をした。

(一)  近隣の迷惑となる行為

(1) 被控訴人は、本件建物部分から階下に掃除機のゴミや小鳥の餌、糞等を捨てて階下居住者やその洗濯物にかけたり、階下居住者が布団を干しているときに多量の水を階下に流して布団を干すこともできなくしたり、また、自らは夜遅く子供と相撲をとるような大きな音を出しておきながら、階下居住者が夜テレビを視聴するなどしていると、うるさいといわぬばかりに床(一階天井)をトントンとたたいていやがらせをしたりした。

(2) 被控訴人は、昭和五六年八月二日、隣室のCを錐を持つて追いかけるなどして警察の出動となつたが、このような行為が数回に及んだ。

(3) 被控訴人は、隣り近所の子供達に対し、大声で「バカ、うるせえ」等と怒鳴り、子供達をして恐怖により室外で遊ぶことを躊躇するような状態にさせた。

(4) 被控訴人は、小田急線成城学園前駅から徒歩五分くらいの静かな高級住宅地域にある本件建物の回りを夏等にパンツ一枚で歩き廻り、隣人が注意しても全くいうことをきかなかつた。

(5) 被控訴人は、隣りの教会及び幼稚園に対し、「うるさい」等といつてコーラの空瓶を投げたりした。

(6) 以上のような被控訴人の種々の行為は単に近隣の人と協調できないという程度を超えた異常なものとしかいいようのないものであつて、これらの行為について近隣の人々から控訴人に対し種々の苦情が寄せられ、その都度控訴人は被控訴人に対し右のような行為をしないように注意をしたが、被控訴人はこれを無視して改めようとしなかつた。そのため、一〇一号室のAは昭和五七年三月二五日に、二〇二号室のCは同年四月四日にそれぞれ本件建物から退去してしまつた。

(二)  廊下に私物を置く行為

隣室のCは、仕事の関係で大きなダンボール箱を部屋に運び入れる必要があつたが、被控訴人が隣室への通路となつている二階廊下入口側の部分に事務所用間仕切りパイプ等種々の物を置く等し、その出入りに支障をきたしていたため、昭和五六年七月頃控訴人にその撤去方を依頼した。そこで控訴人は、被控訴人の入居を仲介した不動産会社の担当者とともに被控訴人方に赴き、その撤去方を求めたところ、被控訴人はこれに応ぜず、「勝手にしろ」といつて自室に入つてしまつた。そこで控訴人がやむなく右パイプ等を撤去し始めたところ、被控訴人は突然パンツ一枚の姿で飛び出してきて、「貴様、他人の物を無断で動かすな」「少しでも触れたらただではおかないぞ」と大声で怒鳴り散らし、果ては話合いのため本件建物部分に入ろうとした控訴人らを住居侵入であるとして警察に連絡する始末であり、その言い方も「見知らぬ人間が二人来ている。警察は早く来てくれ。」というもので、控訴人を家主として認めないものであつた。結局、右パイプ等は撤去できずに終つてしまつた。

4  被控訴人の以上の行為中、(一)は前記特約(1)に、(二)はその(2)に違反するものであり、また各行為は賃貸借契約における信頼関係を破壊するものである。そこで、控訴人は被控訴人に対し同年八月五日到達の内容証明郵便で本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした。

5  仮に、右解除の意思表示が効力を生じないとしても、昭和五六年八月一日以降の賃貸借は法定更新により期間の定めのないものになつているところ、控訴人は被控訴人に対し、同月五日解約の申入れをした。右解約申入れには、前記3のとおり被控訴人の強暴かつ非常識な言動があるので正当事由があり、したがつて右申入れ後六か月の経過により本件賃貸借契約は終了した。

6  仮に右解約申入れの効力が生じないとしても、本件賃貸借は居住用の使用目的に限定されており、使用目的の変更には事前に賃貸人の書面による承諾を要する約定となつているところ、被控訴人は遅くとも昭和五八年二月には本件建物部分において、自ら経営する行政書士等予備校「法学○○会」の営業を始めたので、控訴人は昭和六一年九月二日の控訴審第七回口頭弁論期日で陳述した準備書面により、本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした。

7  よつて、控訴人は被控訴人に対し、賃貸借契約の終了に基づき、本件建物部分の明渡しを求める。

二  請求原因に対する被控訴人の認否

1  請求原因1のうち、(三)(1)を除くその余の事実は認める。被控訴人は当初右(三)(1)の特約の存在を認めたが、それは真実に反する陳述で錯誤に基くものであるから、右自白を撤回し否認する。本件賃貸借契約書には、「賃借人は、物件の内外で、危険または有害な物の取扱い、その他近隣の迷惑となり、或いは物件に損害を与える業務、もしくは設備をしてはならない。」(六条)と記載されているだけであつて、近隣の迷惑となる行為一般を禁止しているわけではない。控訴人の主張する被控訴人の行為はいずれも、右特約で禁止している業務もしくは設備ではない。

2  同2のうち、(一)の事実は認め、(二)の事実は知らない。

3  同3の事実はいずれも否認する。控訴人が主張する被控訴人の行為は器物損壊、脅迫、侮辱、公然わいせつ又は軽犯罪法違反などの構成要件に該当すると思料されるのに、控訴人は告発していないのであるから、その虚偽なことは明らかである。隣室のC某は道で会つても挨拶もしない変り者であり、引越の際には被控訴人の玄関前にごみの山を築き「贈呈乙川殿」と書いた立札を立てて出て行つた。階下のAは転勤により兵庫県に引越したのであつて、被控訴人の行為とは関係がない。隣りの無認可幼稚園の発する騒音の件は、園側が防音装置を設置したので解決済みである。被控訴人ばかりでなく賃借人全員が廊下に私物を置いている。間仕切用パイプを廊下に置いたのは、被控訴人方のプライバシーを守るためにやむをえずしたものである。被控訴人は、隣人(二〇二号室)のDあるいはEの家族らと善隣の誼を結んで現在に至つている。控訴人の主張は、被控訴人のみが賃料値上げ請求に応じなかつたために仕組んだいいがかりにすぎない。

4  同4の事実は否認する。

5  同5の事実は否認する。

6  同6の事実は否認する。本件賃貸借契約書で禁止されているのは、「物件の使用目的を変更すること。賃借人は本物件に本店ならびに支店等の所在とする法人登記をしてはならない。又看板をかかげてはならない。」というものであつて、前段の具体的内容が後段となつているものであるところ、被控訴人は法人登記をしたこともなければ、看板をかかげたこともない。

三  被控訴人の抗弁

1  請求原因1(三)(2)の特約は、その後黙示の合意により撤回された。右事実は、被控訴人以外の賃借人も本件建物廊下部分に私物を置いており、控訴人においてこれを黙認している事実からみて明らかである。

2  本件賃貸借は、昭和五六年七月三一日合意により更新されたものであるところ、控訴人が解除事由として主張する事実はいずれも右更新以前に発生した事実であるから、控訴人は、右更新にあたり、解除事由たる被控訴人の行為を宥恕するか、もしくは解除権を放棄したものである。

3  右のとおり合意による更新が成立し、控訴人は被控訴人が同年七月末日に振り込んだ金九万二〇〇〇円を更新料として受領したのであるから、その五日後に更新前の事実を理由として契約解除の意思表示をすることは権利の濫用であつて許されず、解除の効力は生じていない。

四  抗弁に対する控訴人の認否

1  抗弁1の事実は否認する。

2  同2の事実は否認する。

3  同3の事実中、主張の金九万二〇〇〇円の銀行振り込みの点及び契約解除の意思表示の点は認めるが、その余の事実は否認する。控訴人は、被控訴人が主張の日に更新料名下に振込んだ金九万二〇〇〇円を昭和五六年九月分の賃料相当損害金に充当し、同年八月末日以降の毎月金九万二〇〇〇円の振込金は同年一〇月分以降の毎月の賃料相当損害金に順次充当する。

〔証 拠〕〈省略〉

理由

一請求原因1の事実中(三)(1)の点を除くその余の事実は当事者間に争いがない。

(三)(1)の特約の存在について、被控訴人は当初これを認めたが、これは真実に反する陳述で錯誤に基くものであるとして右自白を撤回し否認するのに対し、控訴人は右自白の撤回について異議があると述べるので、この点について検討する。〈証拠〉によれば、本件賃貸借契約の締結にあたつて作成された契約書の第六条には、「賃借人は、物件の内外で、危険または有害な物の取扱い、その他近隣の迷惑となり、或いは物件に損害を与える業務、もしくは設備をしてはならない。」と記載されており、当事者双方は右のような約定をしたことが認められる。控訴人は、右約定をもつて近隣の迷惑となる行為一般を禁止したものと主張するのであるが、右約定の文言から右のような解釈を導き出すことは困難であり、右の約定はあくまで近隣の迷惑となる業務もしくは設備をすることを禁止したものと解するほかはない。そうだとすると、被控訴人の右自白は真実に反する陳述で錯誤に基くものというべきことになるから、右自白の撤回は有効である。この点に関する控訴人の主張は採用することができない。

二請求原因2(一)の事実は当事者間に争いがなく、同(二)の事実は、〈証拠〉により認めることができ、右認定に反する証拠はない。

三そこで次に、被控訴人が昭和五四年八月一日から昭和五六年八月二日頃までの間に賃借人としてどのような行為をしたかについて検討する。

前記認定の事実に、〈証拠〉を総合すれば、次の各事実を認めることができる。

1  本件建物は小田急線成城学園前駅より徒歩数分の閑静な高級住宅地に位置し、四戸を擁する共同住宅であつて、周辺には民家等が建ち並び、北側は六メートル幅の道路に接していて人の往来も多い。被控訴人は、F不動産株式会社の仲介で、昭和五四年八月一日から本件建物の二階二〇一号室(本件建物部分)に家族とともに入居したが、そのときは既に階下のA(一〇一号室)、南隣りのC(二〇二号室)らが入居していた。二〇一号室と二〇二号室の前方(南側)には約一メートル五〇センチ幅の廊下があり、昇降階段は二〇一号室の前方の一か所しかないため、二〇二号室に出入りするためには二〇一号室の前の廊下を通らなければならない。本件建物は木造建築で壁や床(天井)の防音効果は良好とはいえない状況にある。

2  階下のA方の子供が昭和五四年一一月二七日頃午後三時と五時頃にピアノをひいていると、二階の被控訴人方で椅子から床(一階天井)に飛び降りるような大きな音を出した。それをいやがらせだと感じたA方から控訴人に苦情がきたため、控訴人が被控訴人にそれを伝えると、被控訴人は「実力行使でピアノを止めさせるのだ」と言つて取り合わなかつた。また、昭和五六年初め頃A方から布団を干して外出している間に水をかけられたと苦情がきたので、控訴人が注意したが、被控訴人は「下で布団を叩けば埃は上へあがる。上で水を撒けば下へ落ちるのは当り前だろう」と言つて一蹴した。そのほか、控訴人はA方から、掃除機のたまつたごみ、小鳥の餌(白菜、キャベツなど)や糞、植木鉢の破片、たばこの吸殻、鉛筆の削りかすなどをやたらと階下へ投げるので、洗濯物や家族に当たつて困るとか、テレビの音がうるさいと言わぬばかりに床(一階天井)をトントンたたいていやがらせをするとかの苦情が一〇回以上も寄せられ、何度か被控訴人に注意したが聞き入れられなかつた。

3  控訴人は、階下のA方の子供に対し被控訴人が「バカ、うるせえ」と怒鳴つたりしたとか、また隣室のC方の子供(当時二歳)が被控訴人方の前の廊下を通りかかり室内を見ていたら、被控訴人がその妻に「早く閉めろ」と大声を出したため子供が泣き出し、その後しばらくの間子供が廊下を通るのをこわがつて困つたとか、被控訴人が夏期の暑いときにパンツ一枚で本件建物の周辺を歩くのでA方の家族が不快感を覚えたとかの苦情が寄せられたが、右の点については特に被控訴人に注意をするということはしなかつた。また、昭和五四年秋頃、被控訴人が東隣りのカトリック教会附属幼稚園の園児らの声がうるさいと言つてコーラの空瓶を投げたり、同園の騒音が高いと言つて厳しい抗議をして来たりするが、まともに話合いができるような人ではないので何とかしてほしいという要望が教会から控訴人に寄せられたが、控訴人は右の問題は家主が口出しする問題ではないと言つて、教会の要請に応ぜず、被控訴人に伝えるなどのことはしなかつた。

4  被控訴人は、自宅前の廊下に衝立状間仕切用パイプ(下部には長さ約四〇センチメートルの脚部が両端についており、高さは大人の背たけほどのもの)や植木鉢などの雑貨品を多数置いていた。隣室のC方では、仕事の都合上昭和五六年五月末頃縦七三センチ横五一センチほどの段ボール箱を自室に出し入れしようとしたところ被控訴人の右パイプが邪魔になつて不自由した。そこで、被控訴人の妻に右パイプを移動してもらうように頼んだが、「主人に伝えておきます」と言うのみで、いつこうに移動させる気配がなかつた。被控訴人は、右Cが右段ボール箱を持つてそこを通る度に窓から顔を出し、通過後はパイプがずれていないかどうかを点検したりし、同年六月九日に段ボール箱が右パイプに引つかかり右Cが通行できずに困つていた際にも、窓から顔を出しニタニタ笑つて眺めるだけで、右パイプを移動させようとしなかつた。そこで、たまりかねた右Cが廊下の右パイプを他所へ移してもらうように控訴人に依頼してきたため、同年七月八日午前控訴人が仲介者のF不動産株式会社の担当者とともに被控訴人方に赴き、その移動方を求めた。しかし、被控訴人はこれに応ぜず「勝手にしろ」と言つて自室に入つてしまつたので、やむをえず控訴人らが右パイプを移動させたところ、被控訴人はパンツ一枚の姿で飛び出してきて「貴様、他人の物を無断で動かすな」「少しでも触れたらただではおかないぞ」と大声で怒鳴り散らして右パイプを元に戻した。そして控訴人らが右の問題で話し合おうとすると、被控訴人は「知らない人間が二人来ている。早く来てくれ」と警察に電話をかける始末であつた。結局、被控訴人はその後も右パイプを移動させなかつた。

5  同年八月二日頃二〇二号室のC方から「脅迫されて恐くなつたので、警察には連絡したけれども早く来てくれ」という電話があつたので、控訴人が被控訴人方に急行したところ、パトロール・カーが既に到着していて右Cが「錐のようなものを持つた乙川さん(被控訴人)に追いかけられたのでパトロール・カーを呼んだ」と警察官に話していた。これに対し、被控訴人は警察官に「たまたま錐を使つて仕事をしていたので、持つたまま外へ出てしまい、そのままCさんを追つて話しただけだ」と弁解し、右Cや控訴人らに対しては「自分は肯定も否定もしない。訴えるなら訴えろ。侮辱罪で訴え返すから」と息巻いた。

6  右のほか、同年初め頃、一階一〇二号室に居住していたB株式会社のB某からも控訴人に苦情があつた。すなわち、同人は本件建物の敷地内に置かれた被控訴人所有の可動式物置に自転車等をぶつけて傷をつけた覚えはないのに、一〇二号室のすぐ前方脇にある右物置に大きな字で「あてるな」「お前の車にも傷つけてやる。覚悟しろ」と書かれていたため、右B某から「こんなふうに書かれてびつくりしている。ちょつと恐いので何とかしてくれないか」と控訴人に善処方を要望して来た。しかし控訴人が右の点について被控訴人に話をした形跡はない。

7  なお、一〇一号室のAは昭和五七年三月二五日関西へ転勤により引越し、二〇二号室のCは同年四月四日都内某所へ引越した。それまで右Cは控訴人に対し「乙川さん(被控訴人)がいるので、どこか他所へ移りたい。ほかを探さなくてはならない」と何回も言つていた。

以上の各事実が認められ、右認定に反する〈証拠〉は、前掲証拠に照らし措信できない。

四〈証拠〉によれば、控訴人は被控訴人に対し昭和五六年八月五日到達の内容証明郵便で、被控訴人が近隣の迷惑となる行為をして多数の苦情がきていることを理由として、催告をすることなく本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示をしたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

そこで、右解除の効力について検討する。近隣の迷惑となる行為を禁止する特約があつたとする控訴人の主張が認められないことは前述のとおりであるが、右特約の有無にかかわらず、本件のような共同住宅の賃貸借契約の場合にあつては、賃貸人が各賃借人に対しそれぞれ平穏に居住させる義務を負つている反面、賃借人は他の賃借人など近隣の迷惑となる行為をしてはならない義務を賃貸人に対し負つているものと解される。そして、近隣の迷惑となる行為すなわち義務違反の程度が著しく、賃貸人と賃借人間の信頼関係が破壊されるに至つているときは、賃貸人は催告をすることなく賃貸借契約を解除することができると解するのが相当である。

これを本件についてみると、前記三2で認定したいざこざはいずれも日常のささいな事項に関する隣人間の紛争であつて、当事者間の話合いで解決できるはずのものであるのに、被控訴人の言動には隣人同士の関係を良好に保とうとする姿勢が見られず、ことさら身構えて険悪な空気を作り出し、控訴人の忠告にも耳を貸さないという態度が顕著であつて、その結果として近隣に生じた迷惑の程度は必ずしも軽視しえない。同4で認定した行為については、被控訴人宅の前の廊下は隣室C方への通路となつているところ、被控訴人はここに大型のパイプ等の私物を置きその通行を妨害しているのに、パイプの移動方を求めた控訴人の忠告を聞かずこれを改めなかつたものであつて、控訴人らとの交渉過程における被控訴人の常軌を逸した言動を併わせ考慮すれば、他人の迷惑となる行為としていささか悪質といわざるをえない。なるほど、原審における控訴人、被控訴人各本人尋問の結果によれば、本件建物の他の賃借人も多かれ少なかれ自宅前の廊下に私物を置いていることが認められるが、被控訴人宅前の廊下を除いては他の賃借人方の通路として使用されていることはないことが認められるので、右のことは被控訴人の右行為を正当化できるものではない。また、被控訴人は原審において、右パイプを自宅前の廊下に置いたのは同人方のプライバシーを守るためにやむをえずしたものであると供述するが、そのためだけであれば廊下に接した東側窓にブラインド、カーテン、すだれ等を設置すれば足りるはずであるから、このことも被控訴人の右行為を正当化できるものではない。同5で認定した行為についても、隣人間の好誼を著しく損ない、近隣の生活の平穏を害するものであることは明らかである。

以上、2、4、5の各行為がわずか二年間の賃貸借契約の期間に被控訴人によつて断続的に敢行されたことは、それ自体著しく他人の迷惑となる行為であるといわざるをえず、加えて前記三で認定したその余の1、3、6、7の各事情を併わせ考察すれば、被控訴人の以上のような義務違反の行為によつて、控訴人と被控訴人間の信頼関係は既に破壊されるに至つたというべきである。

五抗弁1についてはこれを認めるに足る証拠がない。被控訴人以外の賃借人が廊下に私物を置いており、控訴人がこれを黙認していることがあるとしても、このことから直ちに右特約の撤回を推認することはできない。

同2で主張する宥恕もしくは解除権の放棄を認めるに足る証拠はない。〈証拠〉によれば、F不動産株式会社が控訴人を代理して、昭和五六年四月一四日付の書面で被控訴人に対し、賃料を月額九万二〇〇〇円から一〇万円に増額することを承諾し、かつ、更新料として賃料一か月分相当の一〇万円を支払うことを条件として合意更新に応ずる旨の通知をしたことが認められるが、〈証拠〉によれば、被控訴人は右賃料の増額には応じなかつたのであるから、結局合意更新の成立を認めることはできないというほかはない。

同3の権利の濫用の主張を認めるに足る証拠はない。控訴人が主張の更新料を受領したとしても、これによつて本件契約の解除が権利濫用となると考えることはできない。

六以上の次第で、前記の本件賃貸借契約の解除は有効というべきである。そうすると、その余の点について判断するまでもなく、控訴人の本訴請求は理由があるので、これと判断を異にする原判決を取り消したうえ、右請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官中島一郎 裁判官加茂紀久男 裁判官梶村太市)

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